パシクル自然公園
白糠町と釧路市音別町との境にある海に面したパシクル沼周辺は、地名の由来をはじめ、シラヌカアイヌとアッケシアイヌの戦やアイヌ古式舞踊「フンぺリムセ」の発祥など、いくつものアイヌ伝説の舞台となっています。
「パシクル」はアイヌ語で「カラス」を意味しますが、エカシ(古老)は地名の由来について、アイヌ語の分析と伝説から、原型は「パ(見つける)・シリ(陸地)・クル(影)」であると解いています。
パシクル沼の伝説(地名の由来:カラス)
昔、アッケシのアイヌが舟でクシロとシラヌカの集落を攻めて来たことがあった。この戦いはシラヌカアイヌが不利になり、この沼地のところで多くの人が戦死し、その死体にたくさんのカラスが集まって騒いだので、パシクルと名付けたという。(貫塩喜蔵エカシの話)
パシクル沼の伝説(地名の由来:陸地を見つけた)
昔、西の方から一人の青年が、小舟にカキの稚貝を積んで、どこか繁殖させるところがないかとやってきた。
そのとき、一面にガス(霧)がかかり、一寸先も見えなくなってしまったが、カラスの声に導かれて舟を寄せていくと、やがて陸の影を見つけることができた。
青年は思わず「パ シリ クル!」と叫んだ。
青年が陸へ上がってみると、そこには沼があり、たくさんのカラスが目に入った。(貫塩喜蔵エカシの話)
フンペリムセ発祥地
「フンペリムセ」は、白糠を代表するアイヌ古式舞踊で「鯨踊り」と訳されています。その由来は伝説となっており、パシクル海岸が発祥地とされています。
「フンペリムセ発祥の由来」
アイヌウタリは、太古から、天の恵みによって食べ生きぬいてきた。
時として、天と自然の恵みが少ないときもあった。
あるとき、西方でカラスの鳴き声が激しいので行くと、パシクルトウの浜辺に大きなフンペが波に寄せられていた。
シラヌカコタンのウタリは、このクジラを天恵の食料として感謝していただいた。
その場で即興的にリムセが舞われた。それが今に伝承されている。
(「フンペリムセ発祥地」碑文/1996年(平成8年)1月白糠町建立)
白糠アイヌ協会は、毎年9月、伝承儀式「フンペ祭イチャルパ(鯨祭)」を開催し、この記念碑の前でヌサオンカミ、イチャルパ、奉納舞踊を行います。
坂の丘チャシ跡
坂の丘チャシ跡は、壕をもつ丘先式のチャシ跡で、白糠市街の西にある「坂の丘」と呼ばれる段丘の南東隅にあります。
坂の丘は、高さ約30メートルの孤島状の段丘で、東側に茶路川、西側に和天別川が流れ、南は太平洋に面しています。二つの川の浸食作用によって周囲の段丘から切り離されたものと考えられています。
丘の東西南北の段丘端には遺物包含地があり、このうち、東の遺跡からは、北筒式土器、緑ヶ岡式土器、擦文式土器、オホーツク式土器と石器、鉄器が出土しています。
「坂の丘」という名は、1900年(明治33)11月に開設された「軍馬補充部釧路支部」の支部長を務めた坂野金策騎兵大佐の名をとって「坂野ヶ岡」と呼んだことによります。
現在は、北半分が町の公苑墓地、南側は民有地で牧草採草地となっています。
岬の森東山公園
ウレシパチセ
ウレシパチセは、2018年4月、太平洋を一望できる岬の森東山公園の麓にオープンした、白糠町のアイヌ民族の文化活動・情報発信の拠点です。(詳しくは「ウレシパチセ」のページをご覧ください。)
シリエトチャシ跡
シリエトチャシ跡は、岬の森東山公園の南西、白糠市街に面した約35メートルの山上にあります。南は太平洋に面し、また、すぐ下にオクネップ川が流れていることから、臨海・臨川性の丘先式チャシと言われています。調査では、柵囲いの跡、壕の跡が確認されています。
北側に隣接した広場には「アイヌ弔魂碑」が建立されており、毎年8月、この広場で『ふるさと祭イチャルパ』のヌサオンカミとイチャルパの儀式、古式舞踊の奉納が行われます。
この山を東に辿ったところ(釧路市方向)に「石炭岬チャシ跡」があります。
石炭岬チャシ跡
石炭岬チャシ跡は、岬の森東山公園の南東(釧路市側)、標高約45メートルの岬の上にあります。この岬の東側を流れるシラリカップ川の河口にある磯のようすが「白糠」の地名の由来となっています。
「白糠(シラヌカ)」地名の由来
「白糠」は、「シラリ(磯)・カ(上・越える)」に由来し、波が磯を越えてしぶきがたつ「岩磯のほとり」を意味します。
岬の森東山公園の西側から南面の下を流れるオクネップ川河口から東の方向へ、白糠漁港をはさみ、石炭岬の先を流れるシラリカップ川河口までの岩磯のようすからこの名がついたと言われています。
伝説「潮薫る磯辺」
夏なお雪降ると言われた幾千年前の蝦夷島にも、夏に雪が降り、海に氷がはりつめることは珍しいことであった。冬から絶え間なく降り続いていた雪は、なお止みそうもなかった。
月日は過ぎて、春、夏、秋と来たが、山谷は雪に覆われていた。ここそこの集落からは、悲しみの声が絶えず聞かれた。近年にない鹿の減少により、死する者さえあちこちにいた。
身に染むような寒い風が吹き通っていた。秋も半ばである。
身をぼろで覆った一人の老アイヌが、東のネモロコタンより幾日か経て、とある沿岸を辿っていた。疲れに悩んだ老アイヌは、波に打ちよせ上げられた流木に腰をおろした。幾日か水よりほかに何も口にしない彼には、疲れがますます加わるばかりであった。その眼からは熱い涙が湧きこぼれていた。
老アイヌは、重たげな眼を、岸辺に白く砕ける波にじっと据えていた。その沖では、わずかに海鳥が鳴くばかりだった。
サァーッと小さな波が岸辺に打ち砕けた。岩の上には流木の端が打ち上げられているのが見える。波は、波に砕けてなお岩に砕けるのだった。
また同じような波が寄せてきた。また打った。また砕けた。けれども、木の端のある岩の突端までにはまだまだ及ばなかった。
しばらくして大きなうねりとともにあふれ来た潮は、今まで水の上に高く突先を現わしていた多くの岩をことごとく洗い過ぎた。そうして、打ち上げられてあった流木の端は、難なく流れ落とされた。潮は勝ち誇った軍のごとく沖に打ち返していった。
今まで満々とあふれていた水はつきて、大小の岩はことごとくその姿を現した。そのとき、これを見ていた老アイヌの眼から、また熱い涙がこぼれた……。
波でさえも、幾度目かにあの高い岩の先を流れ行くことができた。まして俺たちは…。これから一生懸命働いて、カムイの恩に報いなければならない……。
波は岸に激して飛沫を飛ばし、波は渚に寄せて流れ過ぎてゆく。
おお、シラライカよ。
彼の老アイヌは、永遠の居住地としてここに住んだ。
これが白糠居住者の初めである。今の白糠川(シラリカップ川)付近である。
(小助川濱雄著『釧路の海に』から)
幕府直轄の炭鉱…北海道石炭採掘創始の地
「石炭岬」という地名は、この地に徳川幕府直轄の炭鉱が開かれたこと〈1857年(安政4)~1864年(元治1)〉によるものと考えられ、この炭鉱ではアイヌの人たちも採炭にあたっていたとの記録が残されています。
石炭岬となる前、この岬が「シリ・エト(大地の・鼻)」と呼ばれていました。
サシウシチャシ跡
サシウシチャシ跡は、太平洋に面した標高約58メートルの崖の上にあり、東側には深い沢、西と北側には二重の壕と土塁が設けられています。石器(スクレイパー・石斧ほか)、擦文式土器、鉄器(ナタ、タシロ、釘、鍋ほか)などの出土遺物により、続縄文時代から擦文時代を経てアイヌ文化期にいたる遺構と考えられています。
記念碑は、チャシ跡がある山の中腹に建てられており、弓と矢をイメージしています。
チャシは「砦」と訳されますが、実際はコタンでの儀式、裁判、会議などを行う柵で囲った特別な場所で、英雄が住む館でもあり、非常時には砦となりました。
「サシウシ」という地名は、「サシ(昆布)・ウシ(群生する)」という意味で、昆布の産地であったことからつけられました。
伝説「サシウシチャシの女首長」
昔、サシウシチャシに美しい女の首長がいた。その名をホルペチャ・カムイ・メノコと言った。あまり美しいので、カンドコロカムイ(天上の神様)が天下ったのではないかと言われたものだ。
この女の首長は、立派なシトキ(胸飾りの玉)を持っていた。それを聞いたアッケシ(厚岸)の首長がその玉を奪い取ろうと、舟に手下を乗せて不意に攻めてきた。
サシウシコタンのアイヌたちは、恐ろしい評判のアッケシの首長が来たと聞いただけで逃げ支度をするという大騒ぎになった。
しかし、女の首長は少しも騒がず、静かにチャシの中央に立って、天に向かって神の助けを乞う祈りをした途端、たちまち旋風が巻き起こって、チャシに半ば攻め登っていたアッケシ勢は、木の葉のように東の方へ吹き飛ばされてしまった。
(千葉ヌイフチの話)
乳呑自然公園
「乳呑(チノミ)」は、「チ(我ら・私たち)・ノミ(祭る・祈る)」という意味を持つアイヌ語地名で、“物送り場”のことを表し、周辺のコタンの共同祭場として、人々が集まる場所であったと考えられています。
『北海道蝦夷語地名解』(永田方正著)には、「チノミ 祭場 熊ヲ供ヘテ神ヲ祭ル處」と記されており、「イオマンテ」(熊の霊送り)が行われていたことがわかります。
乳呑自然公園は、この“物送り場”の北側に位置し、豊かな自然に囲まれ、桜の名所としても知られています。
チノミチャシ跡
チノミチャシ跡は、庶路川の東の段丘にあり、標高は10~12メートル。幅1メートル、深さ約70センチメートルの壕が確認されています。
同じ場所にある竪穴式住居からは、エムシ(刀)とエムシアッ(刀吊り)が出土しており、このことからもチノミは物送り場であったと考えられます。
地名「庶路(ショロ)」
「乳呑(チノミ)」がある「庶路(ショロ)」は、「ソ(滝)・オロ(向かっている)・ル(道)」という意味のアイヌ語地名で、その名のとおり、庶路川の河口から約30キロメートル上流には「大滝」と呼ばれる滝があります。
かつて庶路川で木材の流送が行われていたとき、まわりの岩を崩して滝つぼを浅くしたため、今は5メートルほどの落差ですが、松浦武四郎の『東蝦夷日誌』には「高五六丈(約15~18メートル)」と記されています。
伝説「義経と弁慶の力石」
庶路川の上流に滝がある。その滝の上にペンケイワ(上の岩)、滝の下にパンケイワ(下の岩)というのがある。
むかし、義経が弁慶を連れて狩りにやってきて休んだとき、常に力自慢をしている弁慶と力くらべをした。義経は、弁慶が持ち上げられなかった岩を軽々と持ち上げ、滝の上に投げ上げたが、弁慶はそれより小さい岩を落としてしまった。
義経が滝の上に投げ上げたのがペンケイワで、弁慶が落としたのがパンケイワである。
(山本甚吉談/市立釧路図書館報から)
伝説「庶路川上流の地獄穴」
古くから、庶路川の上流から阿寒に抜ける穴があると伝えられ、これはあの世に通じているオマンルロパ(あの世へ行く道の入口)ではないかと言われている。
昔、2匹の犬が熊を追ったところ、熊はこの穴へ逃げ込んだので、2匹の犬も続いて中に入って行った。1匹は熊を追って阿寒のふもとへ抜けることができたが、もう1匹はついに出てこなかった。
それで、その穴は中で二つに分かれていて、一方はあの世に通じているのではないかと言われている。
(日下ユキ伝/市立釧路図書館報から)
コイトイチャシ跡
コイトイチャシ跡は、庶路地区を流れるコイトイ川の河口から4キロほどの標高50メートルの段丘上にあります。一条の壕をもつ丘先式のチャシで、地域の人々は古くから「アイヌの城」と言い、その前の沢を「アイヌの砦の沢」と呼んでいたとのことです。
地名「恋問(コイトイ)」
「恋問(コイトイ)」は、「コイ(波)・トゥィエ(崩れる、壊れる)」という意味のアイヌ語地名で、「打ち寄せる波が砂丘を崩し(陸地を壊して)、川や沼に流れ込む」と訳しています。
川がまっすぐ海に流れ込まず、海岸の砂丘に阻まれて陸側を横に流れているところで、荒波が砂丘を壊して流れ込んでくるようすを表したものです。
伝説「コイトイ沼のカムイ イワ」
庶路のコイトイ沼は、ウグイ、フナなどの魚もたくさんいたし、周囲の山はウバユリやキトピロも多かったので、庶路は住みよい平和なコタンとして、アイヌ仲間でもうらやましがられていた。
昔、コタンにたいへん上手にトゥス(占い)をするばあさんがあった。
どうしたことか、ある晩、ばあさんが急に髪を振り乱して「オプンウンペ エク」(津波が来る)と、コタンの中を連呼して走り回った。
コタンの人たちは、はじめ気にもかけなかったが、ばあさんは「早く逃げないと皆死ぬぞ」と、ますます大声で家々の戸をたたいてまわったので、みんな気味が悪くなり裏山に逃れた。
すると間もなく、沖の方が盛り上がり、あれよあれよと言ううちに山のような大波が押し寄せてきて、すべてをさらって行った。
人々は「ばあさんのおかげで助かった」と喜び合った。しかし、ばあさんの姿はそれっきり見たものがなかった。
後でわかったことだが、沼の奥の谷にひとつの大岩が立っていた。これはあのトゥスばあさんがなったのに違いないと、イナウ(木幣)あげて、カムイ イワ(神岩)と言って祭った。
(芦名ヨシ談/市立釧路図書館報から)
伝説「コイトイ沼の主」
昔、コイトイ沼は無名で、ただ「トー」(沼)と言っていた。
この沼は、不思議なことに、いろいろな種類の魚がたくさんいても、フナがすんでいないのである。
あるとき、チライ(イトウ)の子がコイトイ川をさかのぼって、しまいに沼に入ってしまったから、さあたいへん。
この沼はフナがたくさんいて、チライの子はさんざん痛めつけられて、半死半生になって流れて海にもどった。
これを見た親チライは憤慨して、仲間をおおぜい連れて行って、フナを皆殺しにしてしまった。そして、親チライは沼にとどまって主になった。
それで、フナは今もすめないのだと言う。
(芦名ヨシ談/市立釧路図書館報から)